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彩りのまえに 2





 南霧古市の繁華街に居を構える765プロの支所は支所長の律子を筆頭に、春香や伊織といった懐かしいメンツが拠点として活動していた。まだまだ弱小事務所だった頃の事務所を思い出すのか、あの頃を知るアイドルには好評らしい。
 今も春香と律子はお茶を囲んで、久しぶりに顔を出した美希を迎えておしゃべりをしている。ここに来ること自体、美希は初めてだったが、なにかと連絡をくれる律子の計らいもあってすぐに打ち解けることが出来た。その律子もプロデューサーとして忙しいのか、ソファで談笑している美希と春香をチラチラと気にかけながらも仕事にかかりきりとなっていた。
「そっかぁ。雪歩がねえ」
 しみじみといった調子で天海春香はソファの上で伸びをする。トレードマークであったリボンを外し、肩の辺りで外にハネていた髪も背中までまっすぐに下ろしていた。あの頃のわざとらしいぐらいにアイドルアイドルしてた姿は鳴りを潜めていたが、自然体の彼女の笑顔はとても魅力的だ。
 ユニットを組んでいた如月千早が渡米して一時は引退していた彼女も、雑誌コラムの連載など、テレビ外での仕事をこなしていると聞く。当時の春香を知る関係者からは今もテレビ出演の話を持ちかけられているらしいが、頑なとはいわないまでも断り続けている春香の顔はずいぶんとスッキリしていた。
 春香も雪歩のことは気にしていたのか、学校の先輩になったことを話すと「どう? 元気にしてた?」と、自分の作ったクッキーに手を伸ばしながら訊いてくる。少しばかり美希は返事に悩む。確かに元気そうではあったけれど、765プロにいた時の彼女ではないことは確か。それをはたして春香はどう受け止めるのか、言葉にするのをためらっていると春香の方から「変わったでしょ?」とこちらの思っていることそのままを口にしてきた。同時にあの雪歩を思い出し、ヒヤリとする。
 顔に出ていたのか、「驚くよねえ」と春香は苦笑する。その笑いにどういった意図が込められているのか、量りかねていたところで彼女は続ける。
「怪我なんてしなければ、今頃は雪歩もここにいるんだけどね」
 え? という美希の声が結構大きく響く。律子がこちらを向いた気がしたけれど、春香から目を離すことが出来ない。彼女のなけなしの思考能力が考えうる最悪の結果まで辿り着くと、ドッと体から汗が吹き出た。
「引退したの?」
 美希の質問に「知らない?」と春香は返すと、そう遠くはないであろう当時を思い出したのか、顎に指を当てて宙に視線を飛ばした。
 撮影中の事故なんて言葉はワイドショーの中のものだと思ってた。スカートにも関わらず片足を上げた春香は、アキレス腱の辺りを指でなぞりながら説明を続けている。接触事故、重傷、入院、引退。並ぶ単語の重々しさに潰れてしまいそうで、なにより雪歩の変化に納得してしまうのが辛いところだった。
「詳しいことは新聞のスクラップとか見れば分かるけど」
 ソファから立ち上がって本棚を漁る春香をぼんやりと眺めていると、ドスドスと来訪者を告げる足音が響く。乱暴にドアが開かれ、首だけを突き出して怒鳴り込んでくる姿はあの頃のままだった。
「ちょっと春香! アンタなにチンタラしてんのよ! 下でやよいも待ってるんだからさっさとしなさいよバカ!」
 日本人には少し明るい、茶色い髪を揺らしながら水瀬伊織は事務所を見渡す。ちょうどドアの陰になって見えない春香よりも先に美希を見つけると、「あらっ」と、目を丸くする。デコちゃん、と返す声が震えていないか、少し不安だった。
 なにしてたのよっ、と文句を言われる筋合いもないのに伊織は怒っていた。もちろんその態度が彼女なりの親愛の情であることは分かっている。なにより驚いたのは、二年の月日が及ぼした外見の変化だった。
 ドアから覗くスラリとした手足はお人形さんのようであった少女の頃とはまるで違う。にきびもない綺麗なおでこはそのままで、緩いウェーブの掛かった長い髪をわざとらしくかきあげたところで春香に気づくと、膝まで届くブーツで蹴飛ばさんばかりに春香に迫る。
「だからアンタはさっさと来る! 誰のために車まで出してあげてると思ってんのよ!」
 その場でしゃがんだままの春香の首根っこを掴むと、そのまま彼女を連れて外まで行ってしまう。ギャーギャーと五月蝿い声がいつまでも部屋に届き、内面は変わっていない伊織にホッとしたのは、彼女には秘密にしておこう。
 最近はこういうことが多いな、と階下でも高級車を前にひと騒動起こしている二人を、事務所の窓から見ながら思う。いつからああいうことが出来なくなったのか。単にしないだけなのかもしれない、と美希は温くなった紅茶に手を伸ばした。


 翌日の放課後、美希は資料棟に飛び込んだ。平たく言ってしまえば図書館のようなものだが、部室棟の隣に位置するこの建物は同じように旧校舎を改築したもので、その歴史を感じさせる佇まいは盤女の入学案内にも大きく紹介されるほどだと聞く。もちろんそんな話などコンマ数秒で忘れてしまった美希にとって全く縁遠い、うずたかく積まれた本の要塞にしか見えないのだが今日は違っていた。
 フィルム加工された新聞を専用の機械で読み始めて一時間。文字を追う作業は美希にとって苦痛以外の何者でもない。それでも辛抱強くモニタに目を凝らす姿は、彼女を知る人間からすれば驚くべきことだろう。
「見つかった?」
 ふいに、マイクロリーダーを覗き込むように美希に顔を近づける司書補の女性。生徒からは親しみを込めて『友美ちゃん』と呼ばれるその女性が、元同僚のあずさの親友であったことには驚いた。
 まだ、の代わりに首を横に振る。週刊誌やスポーツ新聞の類が置いていないここで、芸能面やそういった情報を期待するのも酷なもの。春香が探していたように事務所に行けばすぐに見つかるし、インターネットを使えば真偽はともかくとして簡単に当時の雪歩を知ることが出来る。それでもしないのはなぜなのだろう。自分に問いかける。
 たぶんそれは礼儀。同じ仲間なのに知らなくて、同じ学校に通うのに知らなくて。なぜか分からないけれどそれが恥ずかしくて、考えてしまったらもう資料棟にいた。美希自身、そこまで明確に考えてはいなかったが、頭に訴えかけてくる感覚は同じだった。
「本人に聞いたら?」
 ずっと言いたかったのだろう。美希の隣で何本かフィルムを抱えた、紺のエプロン姿の友美が苦笑する。いちおう、事故を報じる記事はもう見つけていた。あとはもう、当人だけが知りうる世界が広がっているだけ。しばらく黙ったままの美希が丸まっていた背中を正すのを見て、友美はモニタの電源を落とした。
「話に聞いてたよりもずっとガンコなのね」
 両手を腰に当てて首を傾げる姿はあずさそっくりだったけれど、さっぱりと肩口まで切った髪はまるで違う。猫のような大きな瞳が興味深げに美希を捉え、「あずさは元気?」と訊いてくる間もマジマジとこちらを眺めてくる。さきほどまでずっと手伝って貰った手前、「知らない」と、立ったまま少しだけ身をよじった。
 友美はどこか楽しげにニマニマとした顔を浮かべ、マイクロリーダーの脇に置いた本を手に取る。ポンポンと表紙を手で払うと、美希に差し出した。
 受け取ると、指先に古い本のカサカサとした感触。表紙を見るに、なんとかお茶の本だということは美希にも分かる。友美へと顔を戻すと、もう彼女はマイクロフィルムの片づけをしようと背中を向けていた。「萩原さんが予約してた本なの」と、友美は背中を向けたまま答える。
「なにかキッカケがあった方が楽でしょう?」
 こちらに振り返る友美。フィルムを抱える左手、薬指に光る指輪がやけに目についた。

 資料棟の隣、部室棟とは反対に位置する雑木林を抜けると茶道部所有の茶室がある。高校に茶室があるだけでも贅沢なのに、加えて部室棟にも専用の部室を所有しているのだと友美から聞いていた。今の時間帯なら大抵そこにいるからと、緩やかな勾配になっている雑木林の道を通り、ポツンと建つ小さな門を抜けると急に姿を現す竹林と飛び石に沿って茶室まで至る。
 茶室の名前を友美から教えてもらったけれど覚えていられるはずも無く、美希は預かった本を片手に中に入ろうとしたけれど、まず入り口が見つけられずに周囲をウロウロと歩き回る。今の時代のものとは明らかに違う意匠に、古いものであるはずなのに目新しさを覚えた
「入り口ならそこ。躙口(にじりぐち)っていうの」
 丁度、茶室をグルリと一周したところで雪歩が待っていた。図らずも美希を迎える形となった彼女は、「私はこっちから」と茶室の裏へと消えてしまう。途中、鍵の掛かった勝手口のようなものを見かけていたので、そちらから入ったのだろう。美希が躙口と呼んでいた、まるで犬猫が出入りする為のような扉の前で美希は待っていると「どうぞ」、と雪歩の声がして戸口に手をかけた。
 極端に狭いわけではないけれど、四畳半ほどの空間は美希には不慣れだった。カーキーとベージュと茶色と、そんな地味な色合いの左手奥には深い紺の制服に身を包んだ雪歩が正座して待っている。スカートから覗く膝も黒く染められ、まるで世界の中にぽっかりと空いた穴のように見えた。その黒い膝先にはシュンシュンと湯気をあげる茶釜。並ぶ茶道具は、茶器以外は何に使うのか美希には見当がつかなかったけれど、どこか掴みどころのないぼんやりとした輪郭の雪歩が今だけはハッキリとする。
 雪歩と同じように脚をたたむと、かしこまる美希がおかしいのか、口元に手を当てながら「そんなかしこまらなくても良いよ」と、雪歩は続ける。
「カタいイメージがあるけど、もっと気楽に飲むものだと私は思ってる……あ、もう沸かしてあった間に合わせだけど、ちゃんと良い水は使ってあるからね」
 意外にも饒舌な雪歩に、「うん」と首を動かすだけの美希。この茶室に入ってからというもの、ソワソワとする感覚は嘘ではないようで、あらためて雪歩の世界(ホーム)に踏み込んできたことを認識する。おそらくお茶を作っているのであろう雪歩の所作を、美希はほとんど何も考えずに眺めることにした。格子状の窓から差し込む光が、また雪歩をボンヤリとした世界の中に溶かし込んでいく。ステージの、あの輝くような光が少女をスターダムへと押し上げる力強い光ならば、今の光は彼女を世界へと埋没させる弱くも恐ろしい光。なにより雪歩がそれを嬉々として受けているように思えたのが美希には理解できなかった。

 どうぞ、と差し出された器には当然だけど抹茶色の液体がおさまっている。手に取ると少しザラリとした器、グラス一つにも注視してしまうことなんて無かったのに。徐々に本来の自分とズレていく感覚が美希を追い立てる。わけも分からず掌でクルクルと器を回すと、雪歩がまたクスクスと笑った。
「お茶って聞くと、やりたくなっちゃうよね」
 もう何も挽回するものなど無かったことに気づくと、美希はグイッと飲み干してしまう。それもまた雪歩の苦笑を誘うのだけれど、むしろその味に美希は驚いた。
「あまい」
「そうだね。これでも良いお茶使ってるから」
 お茶の良い悪いなんて分からないけれど、これではオニギリに合わないではないか。いやいや、決め付けはよくない。
 さきほどまでの沈み込むような気分は忘れて美希なりに思考を重ねていく。「これは今後のカダイなの」と一人ごちると、雪歩がたまらずに吹き出した。こちらとしては真面目に考えていたのに。そう言わんばかりに眉を寄せると、「ごめんなさい」と雪歩は少し膝を崩す。
「なんか安心しちゃって」
 変わってなくて、と続ける雪歩に美希の表情は重たかった。雪歩は変わったね、と返せるほどに変わってなければ良かったのかもしれない。それでも、まるでその言葉を待っているように微笑む雪歩に、美希なりに精一杯応えた。
「雪歩は変わったの?」
 少しだけ日が傾き始めたことで、僅かに差し込む赤い陽光が雪歩の顔を照らす。名前が示すとおり、雪のように白い肌がオレンジ色に染まっていく。強い陰影が僅かに見せる彼女の憂いを浮き立たせながらも、細めた目はまっすぐと美希に向けられていた。茶室ごと真っ赤に輝く中、美希に向かって彼女は右足を差し出すように伸ばす。強く照り返す光は窓からの風景を遮り、今だけは孤独になったこの空間では、「少しね」という雪歩の言葉でさえ窮屈なように思えた。
 美希に向かって伸ばした右足首を擦りながら、「歩くのは良いんだけど」と雪歩は赤い閃光の中で続ける。
「走ったりするともう、ね。だから踊るなんてもってのほかで」
 その言葉一つ一つはとても重いはずなのに僅かに笑みを浮かべた顔がどうにもアンバランスで、誘われるように彼女の脚へと手を伸ばしてしまう。指先をふくらはぎの縁をなぞるように指を滑らせる。タイツの独特な感触を覚えながら踝のあたりまで差し掛かったところで、美希は弾かれるように指を離した。雪歩は「びっくりした?」と、相変わらず笑顔のまま。体感時間が狂ってしまうのか、既に夜の闇を抱えた雪歩の顔に美希は改めて恐怖する。
 右足をスカートの下へと収めると、雪歩は腰を上げて膝立ちのまま、美希へとにじり寄る。すぐに立ち上がって逃げればいいのに、慣れない正座で足は痺れを訴えるだけだ。光源の無い室内は闇に埋もれていく。
「この足で色んなものを失ったけどでも、代わりに色んなものを手に入れたわ。たとえばこの黒脚(くろあし)も」
 不意に、口元に感じる柔らかい肉の感触に、今度こそ美希は弾かれるように茶室を飛び出す。頭をしたたかにぶつけながらも、狭い出入り口から這い出る美希に向かって雪歩はいつまでも笑っているようだった。
 また、おいで。

 立川駅から二十分弱、バッチリと変装を決めた真に連れられて訪れた公園は、公園というには随分と大きかった。聞けば立川市と昭島市に跨って作られているものらしく、なんでも駅伝の予選会にも使われるという説明を、朝特有のもやの掛かった思考で美希が覚えられるはずも無い。若草色の芝生が一体に広がる場所でジャージに身を包み、ストレッチを行っている真は学校同様、爽やかなものだった。
「毎朝ってわけじゃないけど、よく走ってるよ」
 真と同じようにジョギングを行う人、犬の散歩をしている人もチラホラと見える。一応、美希も言われたとおりジャージで来たは良いけれど、おろしたての真新しいジャージではどこか居心地が悪かった。とりあえず地面に向かって前屈をしていると、「雪歩はどうだった?」と真の方から聞いてきた。
「あんまり変わってなくて安心したってさ。キスしようとして断られたのは残念ってのも言ってたかな」
 ハハッ、と会話の内容とは裏腹にアッサリとした笑い声。唖然とする美希に目もくれず、ストレッチを終えた彼女はさっさと走り出す。慌ててついていくもののすぐに小さくなる背中に、美希は諦めて歩を緩めた。
 ジョギングの出発地点である原っぱの周囲をぐるっと一時間。見頃を過ぎた葉桜が並ぶ道に沿って歩く。途中、湿地に続く木造の橋が見えたけれど、今はまだピンクの混じる鮮やかな緑を眺めていたかった。桜に寄り添うように広がる菜の花畑も時期を過ぎているのか、茶色く萎れる姿にばかり目がいってしまう。力なく茎から折れる菜の花に少しだけ、自分の姿と重ねた。
 この一年で自分の折れる音、というのを聞いたわけではなかった。あらゆるコネと金を惜しみなく注ぎ込んで売り出した人工の妖精はそれなりの成功を収めたものの、961プロ社長、黒井崇男の思い描いていたものとはまったく違う結末を迎える。宿敵、765プロのアイドル勢に敗北を喫し、プロジェクトフェアリーの全員が移籍。残ったのは社長の憤慨と周囲の嘲笑だけ。黒井社長の手腕に疑問を投げかける者もいたが、少なくとも美希は初めてと言っても良い自己嫌悪に陥ったことは確かだった。デビューから二年の時が経ち、なんとなく華やかなスターになっている自分を浮かべていた先に待っていたのは、こうして歩みを留めている自分。
 大体にして一時間、額に汗を浮かべた真が戻ってきて、美希はまた考えることをやめた。

 外まで戻る途中、ログハウス風の売店でソフトクリームを買った二人は傍に備え付けられていたベンチに座った。先ほどと違い、チラホラと過ぎる人がこちらを見てきたが真は特に気にする風でもなく、抹茶とバニラのミックスに舌鼓を打っている。
 彼女に聞きたい事は山ほどあった。真自身のこと、雪歩のこと、なぜか自分のことまで聞きたくなって、はたしてどれから聞こうか。自分もバニラのソフトクリームに舌を伸ばしたところで真の方から「雪歩のこと、聞きたいんでしょ?」と切り出してきた。慌てるなりすれば良かったのかもしれないけれど、美希は動かない表情のまま首を縦に振った。
 雪歩の怪我を、真は「自分のせい」と続ける。
「その、雪歩とユニット組んでたのは覚えてるよね? 美希たちがこっちに戻ってきた後も二人でやってたんだけど」
 おもむろにジャージの襟を引っ張って左肩を露にする。チラリと見えた下着の紐に妙にドキリとした。
 肩の頂点から二の腕にそって縦に奔る傷跡。削られたように肉に食い込むそれを、真は指先でなぞる。「雪歩のは見た?」と、聞かれて美希はかぶりをふった。あの時は迫られてそれどこじゃなかったし、おいそれと見て良いものか、今も真の傷跡を見ながら思う。
 いい加減、周囲の人の視線も気になったのか、服を戻しながら真は続けた。
「ドラマの撮影中でさ、ボクがミスって雪歩が身を挺してボクをかばった。それは知ってるでしょ?」
 資料棟での記事を思い出し、首を縦に振る。真がミスをして、とは書いていなかったけれど、そこは今更、問いただすものでもない。
「ボクはこの傷で済んだけど、雪歩は足をね……もう踊れないって聞いたときは、目の前が真っ暗になった」
「雪歩は、マコトくんに何か言ったの?」
 今度は真がかぶりを振った。
「なにも。いっそのこと怒ってくれた方が楽だったけど。そんなこと、言う資格も無いし。あとね、ちょうどここでその事故は起こったんだ」
 そうだった、と美希は目を大きく開く。ここに誘われたとき、嫌な汗が流れたのを今になって思い出す。
 行きかう人はそんなことを知るわけもなく、ベンチに座る二人を過ぎていく。コンクリートで舗装された道には、当然だけれど事故の痕跡は見えない。花を落とし、夏の訪れを僅かに見せる木々の青々とした鮮やかさだけが目に映った。
「今のボクがあるのなら、たぶんその事故からだと思う……ここをときどき走るのもあの時の悲しみと、自分への怒りを忘れないためなんだ」
「そういうの、雪歩は望んでないと思う」
「雪歩がそうであっても、ボクがそういうのを望んでるんだ」
 肘を膝に置いて俯く真に美希はそれ以上、言葉を続けられなかった。女の子の王子様(アイドル)として輝く彼女に潜む影の深さ。一人の人間の未来を奪った代償は一体どれほどのものなのか。きっと、それは彼女がアイドルを続けるまで分からないことだと美希は思う。僅かに震える肩が見えるけれど、その肩を抱く人間が自分で無いことを痛感して、時間は過ぎていった。
 

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